「瞬間、ニューマン」「崇高と前衛」にみるリオタールの崇高論

崇高論といえばカント、バークといった17世紀後半の人々が有名ですが、実は20世紀後半にもこの崇高をめぐる議論が盛り上がりました。今回は20世紀後半の代表的な思想家、ジャン・フランソワ・リオタールが崇高をどのように考えていたのかを見ていこうと思います。

まずは簡単に崇高の説明。

カントの崇高論

カントは17世紀後半のドイツの哲学者ですが1790年刊行の『判断力批判』でこの崇高概念について論じています。

まず、崇高は美とは違います。人間が崇高を感じる対象は、大自然。例えば、エベレストのような大きな山、イグアスの滝のような大きな滝。そして大きな建造物。ピラミッドなどです。

私たちが宝石を見て感じる美しさと、大自然を見たときの崇高の感情はまったく別物であるとカントはいいます。

われわれは大自然を目にするとき、そこに魅力を感じるだけではなく、不安や恐怖といったマイナスの感情を抱くことでしょう。美が心地よいという快の感情しか伴わないのに対して、崇高は、快(恍惚)と不快(不安や恐怖)が織り交ざった感情のことを言うのです

より正確にいうと我々が崇高を感じる対象は大自然というよりかは、その背後にある絶対的な何者かであるとカントは言います。

それは決してわれわれの目の前に姿を現すことはない何者かです。われわれはそれを想像することすら許されません。崇高における不安な感情はこのことに起因します。

一方でわれわれはそこに何かがある、ということを見抜いています。カントによるとそれは理性の働きによるものですが、この理性による何者かの把握が快の感情につながるのです。

 

リオタールによるバーネット・ニューマン論

リオタールはカントの崇高論に強く影響を受けていますが、彼自身の崇高論はカントのものとは大きく異なっているといえます。

そして、彼は1984、85年のバーネット・ニューマンについての論考「瞬間、ニューマン」「崇高と前衛」で彼独自の崇高論を展開しています。

バーネット・ニューマンは20世紀半ばに活躍したアメリカの画家です。抽象表現主義の画家として、下のような色と線のみで構成された、シンプルな絵画を制作していました。

端的にいうとリオタールはニューマンの絵画にこそ崇高がある、と述べるのです。ではそれはどういうことなのでしょうか。順を追って説明します。

まず彼が言うにはニューマンの絵画の中に物語はありません。通常絵画は何かしらのメッセージを持つものです。例えばゴッホの「ひまわり」なら、その絵画の中に描かれたひまわりは「現実世界のひまわり」を伝えるメッセンジャーなのです。

しかしニューマンの絵画は何も物語らない、何も指示しない、そしてそれが何なのかという鑑賞者の想像力をまったく受け付けないのです

カントの崇高論でも想像力という言葉を使いましたが(または構想力)、この想像力とはそれが何であるかを理解する能力の事を指します。

ニューマンの絵画が何であるのかがわからない、想像力が機能しない、この状態が鑑賞者の不安や恐怖を呼び起こすのです。カントもいっているとおり、この負の感情は崇高の要素のひとつです。

それではもうひとつの快の感情とはどこにあるのでしょうか。実はそれは、この絵画にはもしかしたら意味があるのかもしれない、この絵画が何であるのかわかるかもしれない、という期待なのです。

まとめると、ニューマンの絵画はそれが何も物語らない限りにおいて、不安と期待を、つまり崇高感情を鑑賞者に抱かせるのです

 

f:id:surrationalisme:20210725124820j:plain

ニューマン「ワンメント6」

出典:https://www.artpedia.asia/barnett-newman/


www.artpedia.asia

リオタールの崇高論の独自性

それではリオタールの崇高論はどのような点でカントの崇高論と異なっているのでしょうか。

ここからは星野太の「感性的なものの中間休止ージャン・フランソワ・リオタールのいける時間論的展開」という論文を参考にします。

まず挙げられるのは、カントの崇高論は巨大なものの向こう側にある「呈示不可能」なもの、つまりわれわれが決して認識できないものが起点となっています。一方でリオタールによると崇高は「呈示」によって誘発されるのです。ニューマンの絵画は圧倒的な「呈示」なのです。それはわれわれによってよういに認識できる絵画です。ただ、それが何なのかわからない。このようにリオタールにおける崇高論は「呈示」を起点にしているのです。

そして二つ目に、カントが崇高を空間的な問題として扱ったのに対し、リオタールは崇高を時間的な問題として扱っています

リオタールはニューマンの絵画は「瞬間」であるといいます。普通絵画を見るとき、われわれはまずその絵画自体に目を向けます。そして次にその絵画に何が描いてあるのかを見極めようとします。絵画がわれわれに送ってくるメッセージを受け取ろうとするのです。これには時間がかかります。ところがニューマンの絵画にはメッセージはありません。通常我々が絵画を見るときに必要とする、絵画を理解するための時間が必要ないのです。ニューマンの絵画は「瞬間」的に把握可能なのです。そしてそれはメッセージがそこに到達するのかしないのかいまだわからない「瞬間」なのです。

リオタールはこのように、カントが巨大なものに崇高を見出したのに反して、瞬間的なものに崇高を見出しています

 

まとめと考察

ここまで、リオタールの崇高論を見てきました。彼はカントの崇高論を受け継ぎつつも、大きく二つの点で独自の論を展開しています。まず一つ目に「呈示不可能なもの」ではなく「呈示」が崇高の引き金となる点。そして二つ目に崇高を空間的な問題ではなく、時間的な問題として考えていることです。

 ここからは私が感じた印象ですが、おそらく、カントが想定する「呈示不可能なもの」とは宗教的色合いを帯びているように思われます。リオタールはこうした見えないものを根拠にせず、我々が認識できる範囲内で崇高という問題を考えたといえるでしょう。ニーチェの言葉に「神は死んだ」というものがありますが、まさにそのような宗教的なものに対する信頼の失墜と科学的なものの見方の流布が彼の崇高論に影響を与えているのでしょうか。17世紀のカントの崇高論と20世紀末のリオタールの崇高論を比べてみるとそうした時代性が垣間見えるように感じました。

「ピピロッティ・リスト:あなたの眼はわたしの島」展 感想

f:id:surrationalisme:20210530193351j:plain

 

京都国立近代美術館で開催中のピピロッティ・リストの展覧会、少し前ですが行ってきました。今回はこの展覧会の感想をつらつらと書いていこうと思います。

 

ピピロッティ・リストについては、私ははじめて知ったのですが、スイス出身の女性アーティストで、映像作品の創作を中心に活動しているようです。今回の展覧会の出品作品も多くは映像を用いた作品になっていました。

 

映像作品と言ってもただ二次元で映像を見せるだけでなくて、空間自体を鑑賞者に体感させようと言う、インスタレーションの形をとった展示。ソファに座ったり、ベッドに寝転がってみる作品などもありました。

 

様々な作品がありましたが、まず気になったのは水をモチーフにした作品が多かったことです。深海をイメージしたような空間、あるいは水中カメラを使った映像など複数ありましたが、「水」は彼女の作品の中でも重要なキーワードなのではないでしょうか。

 

特に印象的だったのはベッドに寝転んで天井に映し出された映像を見る作品。水中の植物や水中にもぐった人間の身体などが映し出されています。まるで水中に沈んでいるような感覚が味わえる。

 

水は人間の根源です。われわれ人間の祖先は海で生まれ、個々の人間もまた母の羊水の中で生まれます。そして水はわれわれの生命を維持しています。水のないところに文明はありません。古代四大文明もそれぞれ、水資源が充実しているところに現れました。

 

水は自然にとっての根源でもあります。近代以降区別されてきた人間と自然。人間は理性を持つものとして自然に優越すると考えられてきました。自然と人間は他者同士として見られてきたわけですが、そんな人間と自然が共有する領域こそが水であると言えるでしょう。

 

この展覧会で私が感じるのは、人間と自然の住み分け、その境界線が撹乱されるような感覚です。「水」というテーマはそのひとつとして考えられるのではないでしょうか。

 

もうひとつ重要だと思うのは「身体」というテーマです。

 

「自分」と言うものを考えるとき、どこまでが「自分」なのかというのはしばしば問題になります。自分の身体は「自分」のうちに含まれるでしょうか。おそらく多くの人は自分の身体は「自分」だ、と考えるでしょう。しかし一方で「体が勝手に…」と言ったりするように、まるで身体が他者となってしまうことも考えられるのです。

 

ピピロッティ・リストの作品には「身体」をかなり大きくズームした映像がしばしば見られました。細かいしわや透けて見える血管の様子などのクローズアップ、こういった映像を見ていると普段見慣れている身体がとても気持ち悪いものに見えてきます。

 

こうした表現の仕方は、デペイズマンや、異化と呼ばれているものです。要するに日常のありふれた事物を本来それが持つ文脈から切り離して提示して見せることで、その事物のまったく異なった一面を見せるのです。

 

言い換えると、ここで提示されている映像の中の身体はもはや普段我々が日常的に目にしている自分の身体ではありません。われわれ人間にとって、本来一心同体、自分の一部と考えられてきた身体は、われわれから切り離され、異様な「身体」となってしまったのです。これは自己の一部が他者となってしまう経験だといえるでしょう。

 

ここで考えさせられるのは、普段人間が自分の一部、と考えているものや自分の所有物と考えているものはいくらでも「あちら側」になりうると言うことではないでしょうか。つまり人間は、自己対他者という二項対立を前提として物事を語る場合が往々にしてありますが、その境界線はいくらでも揺らぐ可能性があるのです。

 

人間が「制圧」していると思い込んでいる自然や、身体もいくらでも人間にとって他者(敵)になりえます。

 

最近のコロナ騒動やここ十年頻繁に起こっている地震津波などの自然災害。われわれは自然という他者によってずいぶん生活様式の変更を強いられました。広い目で見ると近代以降、人間はユマニスムの名の下に自然を制圧できるものとして勘違いしてきたのです。ところが自分達がコントロールできると思っていた自然がこれほどまでに人間に牙をむくことになって初めて(再び)人間は自然が他者であると認識したでしょう。

 

近年の自然の猛威は科学技術によって自然の攻撃を受けるはずのなかった日常から人間を追放した(デペイゼ)といえるのではないでしょうか。人間を完全に自然から切り離すことはできない。我々が普段自然との間に引いている境界線を揺るがすような現状とピピロッティ・リストが提示しているものが私には非常に重なって見えました。

 

ピピロッティ・リスト:あなたの眼はわたしの島」展は京都国立近代美術館で6月20日日曜日まで開催しています。興味がある方は是非。